休学について②
皆さんこんにちは。
お久しぶりに更新します。
昨年は休学をしており、4月から復学予定だったのですが、何と休学期間を延ばしてしまいまして、2年目の休学ライフを送っておりますキタシマです。
同級生は卒業して就職してるし、後輩は就活なうだしで、精神的に中々心細くあります。
2度目の休学に至った理由について
先ずはアルバイトの方をもう少し続けたくなったというのが大きな理由です。盛大なお祝いもあるので、折角だしこんなチャンスもあまりないので…と思い延ばしました。
二つ目はボランティアの活動にもっと従事したかったからです。
この活動を今後の世代にも繋げたい、多くの人に知ってもらいたいと思い、まだ一年残る事にしました。
ぶっちゃけると2年も休学なんてしない方が絶対に良いです。大学での学び(あったかどうかは別にして)が遠い過去の事のように思えてしまうのです。あと英語も出来なくなったかなり。
よっぽど熱中するような事や、長期的に続けたい事がない限りは、一年でキッパリと復学すべきだなあと感じました。
そして昨年は就活なんて手付かず状態だったのですが、流石に同級生が就職している姿を見て頑張ろうと思えて来ました…
と言うわけで、2年遅れで大学を卒業しますが、まだ残ってる皆さんよろしく✌️
硫黄島に行ってきた話 その③ 遺骨収容の現状とこれから
みなさんこんにちは。需要あるのかないのか硫黄島シリーズ。
今回で最後にしたいと思います。
まずはこれまで読んでいただき、またこの記事にも目を通していただきありがとうございます。
擂鉢山から見た南海岸 めっちゃ綺麗でした
これまで硫黄島の歴史などについて触れてきましたので、今回は本題の遺骨主要活動について。
改めて、硫黄島には現在、海上自衛隊・航空自衛隊の基地があるのみで、民間人は住んでいません。一般の渡航は禁止されています。
民間人が硫黄島に行くには、
2. 硫黄島にある建設会社で働く
3. 厚生労働省の慰霊巡拝に参加する
4. 遺骨帰還事業に参加する
などというものが挙げられます。
私は今回、遺骨帰還事業に参加し、訪れました。
島には未だ当時の兵器や壕、トーチカなどが残されていました。
そして何よりも、1万以上の英霊のご遺骨が残されたままとなっています。
島の中に無数にある地下壕やトーチカなどを探し、ある程度目星をつけておきます。
とはいっても70年以上昔の壕ですので、大抵が米軍に埋められてしまっているor自然崩壊してしまい、土砂が詰まってしまっています。
そのため、収容活動の第一歩は壕に溜まった土砂を掻き出す作業から始まります。そしてご遺骨が眠っていると思しき場所になると、そこから掻き出した土砂を篩(ふるい)にかけていきます。
ご遺骨は完全な形で見つかることもありますが、骨片として見つかることも非常に多いため、石や珊瑚などと間違えないよう慎重に確認していきます。
今回の派遣に関しては、お一人の方のご遺骨をお迎えすることができました。
しかしトータルで見ると未だ1万以上のご遺骨が残っています。
日本政府は、遺骨収集推進法を定め、平成36年までを遺骨収容活動の集中期間と定めました。
73年も経ってしまったため、残されたご遺骨は非常に状態も悪くなってしまい、これ以上経つと完全にお迎えすることも難しくなってしまうため、日本政府はこの法案を可決しこの期間で残されたご遺骨をできるだけ全てお迎えしようと考えました。
平成36(2024?)年といいますと、残り8年ほど。アジア太平洋地域の戦地には未だ100万柱以上のご遺骨が残されており、多くの方が帰還事業に取り組んでいます。
硫黄島に関しては、残り1万柱以上のご遺骨が残されています。
例年の派遣による収容柱数を見ていっても、1度の派遣に一桁。年に4回行われているので、毎年おおよそ10~20柱収容することができるかどうかという現状があります。
さらには遺骨収容活動に参加されているご遺族の方の高齢化も進んでいます。
ご遺族の方・戦友の方がご存命の間にご遺骨をお返しすることがもっとも重要だと思っています。
この活動を誰が今後引き継いでいくのか。集中期間が終わってしまっても続けることができるのか。これから長いスパンで考えていくと、難しい部分も多々あるように感じました。
自分としては、今後も是非関わらせていただくことができればと思っています。
そしてこのことは、これから日本という国の躍進を担っていく一部になる身として、決してこの歴史が風化することのないように、日本人として心に留めておきたい事実の一つだと思っています。
戦争で戦った人に正義も悪もないです。
ただただ私たちの国を・子孫を守るために国防の最前線で戦い、今では到底考えることのできないような環境下で敵を食い止めて下さった人たちがいること。
その他にも世界各地で国を守るために戦って下さった人たちがいたことを少しでも心に留めておくだけでも良いのでみなさんに知っておいてほしいと思って、何度かに渡り硫黄島のことを書かせていただきました。
これからより良い日本を、平和な社会の実現を目指していけたらなと思います。
幾重にもわたり硫黄島のことを書きました。もう見飽きたよという方もいらっしゃる中、最後までこの記事を読んでくださり、本当にありがとうございました。
追伸:就活終わったら2QあたりにAPUに帰ります。あと12単位くらい。。。英語開講も頑張ります。。。友達少ないからよろしくね。。。
以下リンク
硫黄島に行って来た話 その② 島の景観編
入間基地で自衛隊の輸送機に乗り込み、決して座り心地が良いとは言えない椅子に座って飛び続けることおよそ2時間半。何もなかった大海原の中にポツンと1つ、島が見えてくる。これが硫黄島だ。
硫黄島は沖縄県宮古島とほぼ同じ緯度に位置しており、年平均気温は24度と高い。暑い時には40度を超える日もあるようだ。
私が降り立ったのは9月下旬だったのだが、それでも日中は30度以上もある上に紫外線が非常に強く、真っ黒に日焼けして帰ることとなる。
初めて硫黄島の景色を目にした時はとても驚いた。
日差しは大変強く、少し出歩くだけでも汗をかいてしまう。しかし日陰に入ると風が吹いていて心地よい。少し高いところへ上がれば一面に海が見渡せ、遠くに見えるのは南硫黄島のみ。ひたすら真っ青な海と雲ひとつない空が広がっている。至る所から鳥の囀りが聞こえてきて、そよ風で草木が揺れている。時折少し痩せ気味の猫を見かけることもある。急ぐ人もおらず、車もたまに通りかかる程度で本土の喧騒さとはかけ離れた、とてものどかな島である
だが、宿舎や滑走路のある場所から少し離れると、至る所に日本軍が掘った壕の跡があった。また、海岸付近にはまだ機関銃の残ったままのトーチカが残っていた。
そしてその壕やトーチカとともに、そこで戦われた部隊の名が書かれた墓標も建てられていた。
銃身の曲がった機関銃が残るトーチカ
アメリカ軍のシャーマン戦車
銃弾が刺さったままになっている
まるで72年前からこの島だけ時が止まってしまったようである。
当時の日本人が掘った地下壕にも入らせていただいた。入り口は非常に狭く、中にはトラックが入れそうなほど広い壕もあるが、かがんで歩かなければならない場所もあった。
また、活火山による火山活動により、至る所から硫黄が吹き出ている。そのため場所によっては壕の中は60度近くのサウナ状態のものもある。
壕の中には、ヘルメットや水筒、やかんや食器などが残っていた。
比べるわけではないが、映画『硫黄島からの手紙』で出てきた壕とは大違いだった。
この島で2万人以上の日本人が亡くなったのだ。
本来なら立ち入ることができない島であるが、私が今回降り立ったのは、未だ眠られたままとなっている日本人のご遺骨をお迎えするため、遺骨収容派遣を行うためだった。
〉〉〉〉〉〉続く
硫黄島に行ってきた話 その① 島の歴史編
皆さんは"硫黄島"と聞くとどんな島をイメージするだろうか。映画『硫黄島からの手紙』を見たことがある人だったらこうイメージするに違いない。
荒涼とした荒地が広がり、草木も生えておらず、至る所から硫黄が噴き上げている"地獄"のような島だと。
私もそのようなイメージを抱いていた。実際に硫黄島に訪れるまではー。
硫黄島(いおうとう)とは、大東亜戦争における日米両軍の激戦地となった島である。東京都小笠原村に属しており、日本最南端の南鳥島に次いで2番目に早く夜明けが来る場所だ。面積は22平方キロで、品川区と同じくらいの大きさである。最も高い場所で、169メートルの擂鉢山となっている、非常に平坦な島だ。現在は在島の自衛隊の基地があるのみで一般人の立ち入りは許可がない限り禁止されている。
2006年に公開された映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』でもご存知の通り、この島で日本軍と米軍が戦った。当初は米軍に「5日で攻略できる」と言われていたが、日本軍の決死の抵抗により36日間も戦闘が行われた。また特筆すべきはその損害の大きさである。
日本軍は戦死者戦2万人だったのに対し、米軍は戦死者戦傷者合わせると2万8千〜9千人で、日本軍を上回った。
硫黄島の戦いは太平洋の島嶼の戦闘で唯一米軍の損害が日本軍のそれを上回った戦いとなった。
また、史上最大の作戦と称された「ノルマンディー上陸作戦」における犠牲者の数を僅か数日で上回っている。
なぜこれほどにまで米軍の損害が大きかったのだろうか…
そもそも米軍は何故硫黄島を占領する必要があったのだろうか。
1944年7〜8月にかけてグアムやサイパンなどのマリアナ諸島を占領した米軍は、B-29による日本本土への空襲を開始した。しかし、かなり距離があり、機体にトラブルが起きたり日本軍戦闘機に迎撃された際に不時着できる場所がなかった。また、当時のアメリカの戦闘機ではマリアナ諸島から日本本土まで飛ぶことのできるものがなく、日本軍の反撃を許してしまっていた。そこで、マリアナ諸島から日本本土のちょうど中間地点にあり、唯一飛行場を建設・拡張することができる硫黄島を次の目標としたのであった。
日本にとっても硫黄島への侵略を許すことは、建国以来初めて他国に国土を奪われてしまうことにも繋がるため、何としてでも死守せねばならなかった。
大本営は、硫黄島防衛の為に栗林忠道陸軍中将(当時)を小笠原兵団町として任命した。栗林中将は米国への留学経験もあり、日米間の戦力・物量差をよく理解していたという。そのため、これまでの水際撃滅作戦から地下陣地を構築し徹底的な持久戦へと移行した。
当初は各地で行われていた万歳突撃を禁じ、ゲリラ戦として1人で10人の敵を殺すまで死ぬことを禁じた。
そして十分な水や食料もなく、地下は地熱によって60度以上にもなる中、自らが戦う為の陣地を構築していった。
米軍は上陸時の被害を最小限に抑えるために、74日間に及ぶ空爆を行うとともに、海上からの艦砲射撃を行い日本軍の陣地を徹底的に潰そうとした。しかし地下に陣地を構築していた日本軍には殆ど影響がなかった。
そして36日間に及ぶ島での戦闘が行われる。
上陸した時こそ攻撃しなかったものの、ほぼアメリカ軍が上陸し終えたところを狙って日本軍が一斉に攻撃した。そしてアメリカ軍は初日だけでも500人以上の戦死者を出すこととなった。
上陸後3日間ほどは日本からの砲撃に苦戦していたものの、海と空からの攻撃も加え、次第に日本軍の反撃は弱まっていった。
そして上陸から5日目には擂鉢山に星条旗が掲げられる。その後も日本軍は必死に抵抗するも次第に島の北へ追い詰められていった。
そして約一カ月後の3月16日、栗林忠道中将は大本営に決別の電報を打電。21日には大本営により硫黄島の玉砕が発表されたが、総攻撃は延期されており実質26日の明け方に最後の総攻撃を仕掛けた。これにより日本軍の組織的な抵抗は終了した。
そして両軍合わせて5万人近くの人が亡くなったのだ。
次回に続く〉〉〉〉〉〉
硫黄島のこと
こんにちは、そーちゃんです。
今回はちょっとお仕事のこととは違うことをお伝えしたいと思います。
長いですが日本人なら知っておいていただきたいお話でございます。もちろん国際生のかたも日本語ですが読んでいただければ嬉しいです。
と言いいますのも、僕は現在、大学を休学して働いているのですが、また別の活動を行っています。
これは、遺骨収容活動です。
先の大戦で、日本本土から離れた地で亡くなられた方々のご遺骨を、日本までお迎えするというものです。
僕自身、まだこの活動をしている団体に加入させていただいてから日が浅く、これから実際に収容活動を行いにいくところです。その先が硫黄島なのです。
もし興味がありましたら、是非こちらのHPを一度拝見してもらえればと思います
JYMA 日本青年遺骨収集団 | Just another WordPress weblog
派遣先としては、硫黄島以外にもマリアナ諸島のグアムやサイパン、インドネシアや沖縄、ロシア方面など様々な地域があります。
さて、話を硫黄島に戻したいと思います。
そもそも硫黄島と言いますと、日本の中には現在2つの硫黄島があります。
一つ目は薩摩硫黄島(いおうじま)です。薩摩諸島に位置しており、鹿児島県にあるものになります。
こちらは民間人でもフェリーで訪れることができ、キャンプ場などもある自然豊かな場所です。
(詳しくは 硫黄島 (鹿児島県) - Wikipedia からどうぞ)
読み方が違うのに注意ですね。
こちらは東京都小笠原村に位置しており、宮古島などと同じ緯度にある暖かい(暑い)島になります。
こちらの硫黄島は、自衛隊の基地などがあり国防の最重要地点として、現在民間人が立ち入ることのできない島です。
そもそもこの島では一体何があったのか。
硫黄島の概要
この島は東京都の小笠原村に属している村です。東京からは約1200キロほど離れていて、広さは東京都の品川区と同じくらいの小さな島です。硫黄島という名前の通り火山性の島であり、火山活動が活発です。島の中で最も高い場所は標高169メートルの擂鉢山でした。皆さんが通学するときに途中で見かける、大きな清掃事務所のあるあたりですかね。
戦前には、千人ほどの村もあり、農業や漁業に勤しんでいました。この島には井戸がなく、飲料水には雨水を利用するしかありませんでした。地下水には硫黄分が含まれており、飲むことには適さなかったのです。
戦後は米軍により統治されていたが、返還されると、自衛隊の基地が置かれることとなり、現在も国防の重要拠点であるため民間人の立ち入りは禁止されています。
硫黄島の戦い
もしかしたら映画で見た方も多くいるのではないでしょうか。嵐の二宮和也さんも出演した有名な「硫黄島からの手紙」の舞台になった島です。
この島は、今から約70年前(正確には72年前)に日本軍とアメリカ軍の激戦地となった場所です。この硫黄島の戦いでは、犠牲者(負傷者・戦死者含める)の数でアメリカ軍が日本軍を上回った唯一の戦場となっています。
アメリカ軍は1944年7月8月にマリアナ諸島を制圧すると、次にこの硫黄島を攻略することに決めました。当時のアメリカにとって、この硫黄島をどうしても攻略しなければならない理由がありました。
硫黄島には周辺の小笠原諸島の中でも特に飛行場の建設に優れている平坦な土地があり、この硫黄島を拠点とすることでマリアナ諸島から日本本土への爆撃が可能になるということです。
それまでにもマリアナ諸島からは有名なB-29という爆撃機が日本本土へ空襲をしていたのですが、航続距離の問題から、護衛の戦闘機をつけることが大変難しかったのです。そのためB-29単体での空襲を行わなければならず、その鈍重な機体の為撃墜されることも珍しくはありませんでした。
また、空襲を終えてマリアナ諸島に戻る際に、攻撃を受けた機体やエンジン不良を起こした機体が中継地として使用する飛行場がどうしても必要でした。それまではほとんどの飛行機が海に不時着し、飛行士とも帰らぬままとなっていました。
日本にとっても、この硫黄島は国防最大の要でもあり、この島を取られることは日本の国土を初めて占領されることとなり、また本土への本格的な空襲を許すこととなってしまう為、何としてでも死守しなければならない地でした。
硫黄島に着任した栗林大将(当時中将)は島に全長18キロにも及ぶ巨大な地下陣地を構築し、迫り来る米軍の猛威をかいくぐりながら戦闘を行いました。直線距離でAPUから大分市よりちょっと先くらいまでの距離です。
当時は島に工事用の車両などはありませんでしたので、その地下陣地はほとんどが人の手によって掘られました。火山活動も活発だった為、地熱によって地下の温度は40度はざらに超えていたそうです。
アメリカ軍による激しい空襲と感砲射撃が繰り返されたのちに上陸し、およそ36日間に渡る戦いが行われました。
栗林大将は自決することを禁止し、最後まで徹底的に戦うことを選びました。そうして、当初はアメリカ海兵隊から「5日で攻略できる」と言われていた島を、何倍もの戦力の差があるアメリカから1ヶ月以上戦い抜き、多くの犠牲者を出した戦いとなりました。
とにかくこの悲惨な戦場では、非常に多くの方々が国のために命を落とされました。そして戦後しばらくはアメリカの領土となっていましたが、昭和40年には日本に変換されることとなりました。
それからご遺骨の収容を行っているのですが、現在見つかっている数はおよそ1万柱で、未だに1万柱以上のご遺骨が日本に帰えることができないままでいるのです。
当時、”死の島”と呼ばれ、死ぬ事を分かっていながらただ本土への侵攻を少しでも遅らせるために必死に戦い抜いてくださった2万人以上の英霊に対する恩返しが、ご遺骨を日本までお迎えすることなのではないかと思いこの活動に参加することにしました。
長々と書き綴ってしまいましたが、もしお時間ありましたら「硫黄島からの手紙」是非一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。非常にわかりやすく描かれています。
ともかく、もうすぐ硫黄島へ出発予定であります。また帰ってきた際に何か感じたこと等書かせていただければと思います。
長々とお読みいただきありがとうございました m(_ _)m
それでは。
休学について
こんにちは。
今回は雑ですが休学のことについて書こうと思います。
僕は現在、APUを休学して千葉に住んでいます。
休学をしている理由は、某テーマパークで働く為です。
よく、多くの方から
「思い切った決断をしたねえ」
と言われます。
別に海外に留学に行くわけでもなく、企業したりインターンをするわけでもなかったので…
でも毎日楽しく働いております。めちゃめちゃ楽しいです、ここで働くのは。
そんな感じで何かやりたい事の為に休学を考えている方に少しでも、ほんの少しでも参考にして頂ければ幸いです。
「へえ、こんなやつもいるのか。こいつみたいにはなりたくねえな」みたいな感じで反面教師にして頂いても良いです。
ちょっとでもAPU生の為になればと思い、書くことができればと思います。
あまり書くことに慣れてない為、読みづらい文章ではありますがよろしくお願いします。
とりあえずは、なぜ僕が休学するに至ったのか書かせていただこうと思います。
主に理由としては3つありました。
1つ目は、自分のAPU生活を振り返る時間が欲しかったことです。
僕の中でのAPU生活はずーっとバタバタしていた覚えがあります。
サマキャンTAに始まりGASSやTA、FLAGに加えての授業やアルバイトなどで本当にあっという間に3年間過ぎてしまいました。
普通ならこのまま就職活動をして、という流れなのですが
どうも自分はこのまま就職活動をしても、上手くこれまでのことを振り返って話すことのできる自信がありませんでした。
どうすれば振り返ることができるのか・・・
それは”一旦APUという環境から離れてみる”ということが必要だと考えました。
・・・結果的に今まで自分が”井の中の蛙”状態だったことに気づかされております。他大学の学生と関わる機会も得られまして、色々な人がいるということに気づきました。
2つ目は”ホスピタリティ”を現場で学びたいという思いがあったからです。
僕自身将来は旅行業に関わる職種に就きたいと思っています。そのためには、現場で実際にホスピタリティを学びたいと考えました。
では学ぶことのできる場所はどこか・・・そうして考えついたのが今の職場でした。
日本の中に数あるテーマパークの中でも、最高峰と言われており、古い歴史と実績を持ち合わせているのでここで間違いない!と思いました。
これに関してはもう少し詳しく紹介できればなんて考えております。
そして3つ目に、単純に働いてみたいという憧れからでした。
働いてみたい!とは思っても自分は地方出身、首都圏になんて就職でもしない限り住むことはないだろうなんて考えていました。
ですが時間的にも少しですが余裕ができた今なら、逆に今しか挑戦するチャンスはない!と思い、思い切って飛び込んでみました。
こんな感じで、すごいフワフワしているし何がしたいのかよくわからないようで、のらりくらりですがなんとか生きております。
でもここでは毎日が新鮮で、新しい発見や出会いに恵まれています。
これまでとは全く異なった世界で過ごすのは、自分をすごく成長させてくれている気がします。
それだけでも休学した意味はあったのかなー、なんて考えながら過ごしています。
残された期間は半年ほどしかないのですが、自分なりに精一杯頑張っていきたいと思います。
(ぜひ一度遊びに来てね)
それではまた
2017.09.15
はじめに
こんにちは そーちゃんです。
APUを離れて早半年、現在私は千葉県にて一人でのんびり暮らしております。
APUの課題やグループワークなどに追われていた日々が嘘のように、時間を持て余しております。のんびり
皆様の日々のご活躍はフェイスブックやツイッター等を通して拝見しております。
ちょっと山の上が恋しくすら思えてきた最近であります。
さて、この半年間一体何をしていたのかと言いますと、ひたすら働いておりました。具体的内容は詳しくお話することができませんので悪しからず。(個人的に聞いてね)
今更感はありますが、休学のことや働いてる時のこと、自分が今取り組んでいることなど大まかではありますがこのブログに書き綴っていければと思い作ってみました。
気が向いたときにでも目を通していただければ幸いです。
では次回の記事にて。