Himatsubushi

気ままに休学中のこと書きます。

硫黄島のこと

こんにちは、そーちゃんです。

 

今回はちょっとお仕事のこととは違うことをお伝えしたいと思います。

長いですが日本人なら知っておいていただきたいお話でございます。もちろん国際生のかたも日本語ですが読んでいただければ嬉しいです。

 

 

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小笠原諸島硫黄島



 

と言いいますのも、僕は現在、大学を休学して働いているのですが、また別の活動を行っています。

これは、遺骨収容活動です。

先の大戦で、日本本土から離れた地で亡くなられた方々のご遺骨を、日本までお迎えするというものです。

 

僕自身、まだこの活動をしている団体に加入させていただいてから日が浅く、これから実際に収容活動を行いにいくところです。その先が硫黄島なのです。

 

もし興味がありましたら、是非こちらのHPを一度拝見してもらえればと思います

JYMA 日本青年遺骨収集団 | Just another WordPress weblog

派遣先としては、硫黄島以外にもマリアナ諸島のグアムやサイパンインドネシアや沖縄、ロシア方面など様々な地域があります。

 

 

さて、話を硫黄島に戻したいと思います。

 

そもそも硫黄島と言いますと、日本の中には現在2つの硫黄島があります。

 

一つ目は薩摩硫黄島(いおうじま)です。薩摩諸島に位置しており、鹿児島県にあるものになります。

 

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こちらは民間人でもフェリーで訪れることができ、キャンプ場などもある自然豊かな場所です。

(詳しくは 硫黄島 (鹿児島県) - Wikipedia からどうぞ)

 

 

 

もう一つの硫黄島は、小笠原諸島硫黄島(いおうとう)です。

 

読み方が違うのに注意ですね。

 

こちらは東京都小笠原村に位置しており、宮古島などと同じ緯度にある暖かい(暑い)島になります。

 

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本土からはかなり離れている

 

こちらの硫黄島は、自衛隊の基地などがあり国防の最重要地点として、現在民間人が立ち入ることのできない島です。

 

そもそもこの島では一体何があったのか。

 

 硫黄島の概要

 

 この島は東京都の小笠原村に属している村です。東京からは約1200キロほど離れていて、広さは東京都の品川区と同じくらいの小さな島です。硫黄島という名前の通り火山性の島であり、火山活動が活発です。島の中で最も高い場所は標高169メートルの擂鉢山でした。皆さんが通学するときに途中で見かける、大きな清掃事務所のあるあたりですかね。

 戦前には、千人ほどの村もあり、農業や漁業に勤しんでいました。この島には井戸がなく、飲料水には雨水を利用するしかありませんでした。地下水には硫黄分が含まれており、飲むことには適さなかったのです。

 戦後は米軍により統治されていたが、返還されると、自衛隊の基地が置かれることとなり、現在も国防の重要拠点であるため民間人の立ち入りは禁止されています。

 

 硫黄島の戦い

 

 もしかしたら映画で見た方も多くいるのではないでしょうか。嵐の二宮和也さんも出演した有名な「硫黄島からの手紙」の舞台になった島です。 

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映画 硫黄島からの手紙

 

 この島は、今から約70年前(正確には72年前)に日本軍とアメリカ軍の激戦地となった場所です。この硫黄島の戦いでは、犠牲者(負傷者・戦死者含める)の数でアメリカ軍が日本軍を上回った唯一の戦場となっています。

 

 アメリカ軍は1944年7月8月にマリアナ諸島を制圧すると、次にこの硫黄島を攻略することに決めました。当時のアメリカにとって、この硫黄島をどうしても攻略しなければならない理由がありました。

 硫黄島には周辺の小笠原諸島の中でも特に飛行場の建設に優れている平坦な土地があり、この硫黄島を拠点とすることでマリアナ諸島から日本本土への爆撃が可能になるということです。

 それまでにもマリアナ諸島からは有名なB-29という爆撃機が日本本土へ空襲をしていたのですが、航続距離の問題から、護衛の戦闘機をつけることが大変難しかったのです。そのためB-29単体での空襲を行わなければならず、その鈍重な機体の為撃墜されることも珍しくはありませんでした。

 また、空襲を終えてマリアナ諸島に戻る際に、攻撃を受けた機体やエンジン不良を起こした機体が中継地として使用する飛行場がどうしても必要でした。それまではほとんどの飛行機が海に不時着し、飛行士とも帰らぬままとなっていました。

 

 日本にとっても、この硫黄島は国防最大の要でもあり、この島を取られることは日本の国土を初めて占領されることとなり、また本土への本格的な空襲を許すこととなってしまう為、何としてでも死守しなければならない地でした。

 

 硫黄島に着任した栗林大将(当時中将)は島に全長18キロにも及ぶ巨大な地下陣地を構築し、迫り来る米軍の猛威をかいくぐりながら戦闘を行いました。直線距離でAPUから大分市よりちょっと先くらいまでの距離です。

 当時は島に工事用の車両などはありませんでしたので、その地下陣地はほとんどが人の手によって掘られました。火山活動も活発だった為、地熱によって地下の温度は40度はざらに超えていたそうです。

 

 アメリカ軍による激しい空襲と感砲射撃が繰り返されたのちに上陸し、およそ36日間に渡る戦いが行われました。

 栗林大将は自決することを禁止し、最後まで徹底的に戦うことを選びました。そうして、当初はアメリカ海兵隊から「5日で攻略できる」と言われていた島を、何倍もの戦力の差があるアメリカから1ヶ月以上戦い抜き、多くの犠牲者を出した戦いとなりました。

 

 とにかくこの悲惨な戦場では、非常に多くの方々が国のために命を落とされました。そして戦後しばらくはアメリカの領土となっていましたが、昭和40年には日本に変換されることとなりました。

 

 それからご遺骨の収容を行っているのですが、現在見つかっている数はおよそ1万柱で、未だに1万柱以上のご遺骨が日本に帰えることができないままでいるのです。

 

 

当時、”死の島”と呼ばれ、死ぬ事を分かっていながらただ本土への侵攻を少しでも遅らせるために必死に戦い抜いてくださった2万人以上の英霊に対する恩返しが、ご遺骨を日本までお迎えすることなのではないかと思いこの活動に参加することにしました。

 

 長々と書き綴ってしまいましたが、もしお時間ありましたら「硫黄島からの手紙」是非一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。非常にわかりやすく描かれています。

 

ともかく、もうすぐ硫黄島へ出発予定であります。また帰ってきた際に何か感じたこと等書かせていただければと思います。

 

長々とお読みいただきありがとうございました m(_ _)m

 

それでは。

 

 

参考文献:梯久美子(2008)「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道新潮文庫.