硫黄島に行ってきた話 その① 島の歴史編
皆さんは"硫黄島"と聞くとどんな島をイメージするだろうか。映画『硫黄島からの手紙』を見たことがある人だったらこうイメージするに違いない。
荒涼とした荒地が広がり、草木も生えておらず、至る所から硫黄が噴き上げている"地獄"のような島だと。
私もそのようなイメージを抱いていた。実際に硫黄島に訪れるまではー。
硫黄島(いおうとう)とは、大東亜戦争における日米両軍の激戦地となった島である。東京都小笠原村に属しており、日本最南端の南鳥島に次いで2番目に早く夜明けが来る場所だ。面積は22平方キロで、品川区と同じくらいの大きさである。最も高い場所で、169メートルの擂鉢山となっている、非常に平坦な島だ。現在は在島の自衛隊の基地があるのみで一般人の立ち入りは許可がない限り禁止されている。
2006年に公開された映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』でもご存知の通り、この島で日本軍と米軍が戦った。当初は米軍に「5日で攻略できる」と言われていたが、日本軍の決死の抵抗により36日間も戦闘が行われた。また特筆すべきはその損害の大きさである。
日本軍は戦死者戦2万人だったのに対し、米軍は戦死者戦傷者合わせると2万8千〜9千人で、日本軍を上回った。
硫黄島の戦いは太平洋の島嶼の戦闘で唯一米軍の損害が日本軍のそれを上回った戦いとなった。
また、史上最大の作戦と称された「ノルマンディー上陸作戦」における犠牲者の数を僅か数日で上回っている。
なぜこれほどにまで米軍の損害が大きかったのだろうか…
そもそも米軍は何故硫黄島を占領する必要があったのだろうか。
1944年7〜8月にかけてグアムやサイパンなどのマリアナ諸島を占領した米軍は、B-29による日本本土への空襲を開始した。しかし、かなり距離があり、機体にトラブルが起きたり日本軍戦闘機に迎撃された際に不時着できる場所がなかった。また、当時のアメリカの戦闘機ではマリアナ諸島から日本本土まで飛ぶことのできるものがなく、日本軍の反撃を許してしまっていた。そこで、マリアナ諸島から日本本土のちょうど中間地点にあり、唯一飛行場を建設・拡張することができる硫黄島を次の目標としたのであった。
日本にとっても硫黄島への侵略を許すことは、建国以来初めて他国に国土を奪われてしまうことにも繋がるため、何としてでも死守せねばならなかった。
大本営は、硫黄島防衛の為に栗林忠道陸軍中将(当時)を小笠原兵団町として任命した。栗林中将は米国への留学経験もあり、日米間の戦力・物量差をよく理解していたという。そのため、これまでの水際撃滅作戦から地下陣地を構築し徹底的な持久戦へと移行した。
当初は各地で行われていた万歳突撃を禁じ、ゲリラ戦として1人で10人の敵を殺すまで死ぬことを禁じた。
そして十分な水や食料もなく、地下は地熱によって60度以上にもなる中、自らが戦う為の陣地を構築していった。
米軍は上陸時の被害を最小限に抑えるために、74日間に及ぶ空爆を行うとともに、海上からの艦砲射撃を行い日本軍の陣地を徹底的に潰そうとした。しかし地下に陣地を構築していた日本軍には殆ど影響がなかった。
そして36日間に及ぶ島での戦闘が行われる。
上陸した時こそ攻撃しなかったものの、ほぼアメリカ軍が上陸し終えたところを狙って日本軍が一斉に攻撃した。そしてアメリカ軍は初日だけでも500人以上の戦死者を出すこととなった。
上陸後3日間ほどは日本からの砲撃に苦戦していたものの、海と空からの攻撃も加え、次第に日本軍の反撃は弱まっていった。
そして上陸から5日目には擂鉢山に星条旗が掲げられる。その後も日本軍は必死に抵抗するも次第に島の北へ追い詰められていった。
そして約一カ月後の3月16日、栗林忠道中将は大本営に決別の電報を打電。21日には大本営により硫黄島の玉砕が発表されたが、総攻撃は延期されており実質26日の明け方に最後の総攻撃を仕掛けた。これにより日本軍の組織的な抵抗は終了した。
そして両軍合わせて5万人近くの人が亡くなったのだ。
次回に続く〉〉〉〉〉〉